その4 三日目夜〜四日目


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時刻表('01/07/31)

志布志発
5:23
日南線(キハ140+キハ28)
佐土原着
8:17
9:00
日豊本線(455系3連)
延岡着
10:11
10:44
高千穂鉄道 たかちほ1号
高千穂着
12:04
高千穂バスターミナル発
12:20
宮崎交通バス
高千穂峡
12:30
高千穂バスターミナル発
16:38
宮崎交通バス
高森役場前着
17:50
高森発
18:10
南阿蘇鉄道(はなしのぶ)
阿蘇下田城ふれあい温泉前 18:30?
19:12
立野着
19:20?
19:22
豊肥本線(キハ58+28)
豊後竹田着
21:00
21:19
豊肥本線(キハ35 2連)
大分着
22:34
23:00
日豊本線(455系3連)
別府着
23:12
別府国際観光港発
26:00
宇和島運輸(船)
三崎港着
28:15

「お客様だわ」「お客様が来たよ!」「何年ぶりかしら」「歓迎しなきゃね」「そうねそうね」

魔女屋敷の化け物たちが発する言葉である。まあそれはともかく、昨日は締め出された「(申し出により自主規制)旅館」に今日は泊まることにした。志布志駅に5時に到着したあと、宿へ直行。
すると、三十路一直線(笑)の方が出てきて、部屋へと案内してくれる。「じゃ、お二階へいらしてください」というので二階へ行こうとすると階段も廊下も真っ暗。電気付けた方がいいと思うぞ。 おまけに外よりも遙かに暑い。部屋に入るとやっぱり外より暑い

女性「えっと、クーラーはコイン式で2時間100円ですけど、きくかどうか……ねぇ…」(おい)

私の顔を見た後、自分の100円を入れていった。まああとで回収する金だからね。
部屋を見回してみると、普通の和室。壁がずいぶん破れてつぎを当ててあったり、雨漏りの後が散見されたりするが、一泊3500円だから仕方ないだろう。
まあ、あれだよな。「ロマンのある壁のしみ」なるものを日夜探し続けて全国を旅する人もいるくらいだし(あんまり関係ない)。

しばらくして、女将が登場。たぶん先ほどの女性の母親か姑であろう。台帳を出すので書き込む。すると、

今月に入ってから私が4人目の客であった。
「今日はご飯はありませんので」という。

まあ、1ヶ月のうち26日は客が来ない旅館、仕込みなどするわけもない。

しばらく部屋でゆっくりしていると三十路が登場、「お風呂が沸きましたので」という。
この「お風呂」がなんとも、つっこみどころ満載であった。
まず、脱衣所に行くと脱衣用の棚が柱一本で立っている。 まあ、1ヶ月のうち26日は客が来ない旅館、直す金もないかもな。

つぎに風呂場にはいると、錆びた浴槽が一個捨ててある。
いや、これは一個とか言う問題じゃなくて、『旅館の風呂場に浴槽が捨ててある』のは非常識だろう。絶対。

“じゃあ、シャワーでも浴びるか"と蛇口をひねると、カランから冷水が出てくる。どの蛇口をひねっても冷水しかでない。おまけにすさまじく金属くさい。
そして、つまみを回してカランをシャワーに切り替えてから気がついた。
先がついてないよ、このシャワー。いや。あのな。これはホースというのだよ(T_T。 いくら3500円だからって金属くさい冷水しかでないホースで体を洗えというのか? しかたないので浴槽からいちいちお湯をくんできては体と頭を洗った。

で、浴槽に浸かる。でも、胸までお湯が来ないんですけど。 ああもう。下を見ると浴槽のタイルがはがれて足にコンクリートが当たっている。上を見ると、天井はコンクリート剥き出し。
実はここは倉庫なんじゃないだろうか? 浴槽も捨ててあるし…

着替えを済ませて部屋に戻ると、パソコンを充電して、明日レポートを駅前からアップする準備をして、残金をチェックして寝る。

日南線に夜は明けて

都城や大分のアクセスポイントが応答しないので、直接東京のアクセスポイントにつないでみる。電話料金は死ぬほどかかるけど、レポートが提出できないよりましだ。結局電話料金600円(泣)。

明けゆく志布志駅には始発の日南線が停車していた。今日の編成はキハ140+キハ28。果たしてこの編成は漢らしいだろうか?

「形式なんか言われたって分からない」とか言われそうだから「気動車の漢らしさ」について説明しよう。
1960年代、全国の非電化路線から蒸気機関車が消滅し、幹線からローカル線まで多くの車両がディーゼルに置き換えられるようになった時代、国鉄が開発した急行用の気動車が「キハ58+キハ28」である。当時、高度成長経済の真っ直中だっただけあり、鉄をありったけ使った上に整備費もかかる贅沢な気動車である。なんせ前面の鉄板の厚さが5cm。装甲車のような車両である。以前、第3セクターの信楽高原鉄道に乗り入れて衝突事故を起こしたとき信楽側の安物レールバスを完膚無きまでに鉄屑に帰し、そのかわりキハ58に乗っていた乗客にけが人が少なかった(笑…)事件は、幼かった私の脳裏にまだはっきり残っている。キハ58だけだと非冷房車。28と組み合わせると、28はエンジンが1つ少ない代わりに冷房用電源装置を積んでいるので冷房できた。

そして、この車両は全国北海道から九州に至るまで至るところを席巻した。当時は12両編成以上で走ることもあるほどの気動車全盛時代。当時たくさんあった急行・準急、のちに各駅停車にとキハ58シリーズは標準になった。そして、(これ以前のキハ20とかから規格は使われているけど)キハ58系統のもつブレーキ系統・24V制御系統をその後の気動車も踏襲していったのである。

規格を踏襲するとは、つなぐときに互換性があるということ。

だから旧国鉄型の気動車は何に何をつないでも大丈夫なのだ(互換性があるから)。たとえば、今の電車は互換性がとても乏しい。京浜東北線(209系:VVVFインバータ制御・回生ブレーキ)に山手線(205系:界磁励加制御、空気ブレーキ)はつなげないし、中央線(201系:サイリスタチョッパ制御:空気ブレーキ)もつなげない。それに比べて地方のローカル線などではいろんな寄せ集め気動車同士でも編成が簡単に作れてしまうから、経済性がある(ただし、エンジンの回転数(rpm)を事前にきちんと適合させておかないとひどいことになる)。

さてさて、キハ58シリーズの亜種としてキハ56シリーズ、キハ65シリーズなどが作られて、寒地仕様や急行用の設備増強型として使われた。他にもキハ27とか35とかいろいろあるけどまあ、これは機会があれば話すことにしよう。

そして1970年代後半に登場した運命の(おい)汎用気動車、それが「キハ40系」である。キハ40は1両の両側に運転台がついて1両での運行(単行)を可能にしたタイプ、キハ48は片運転台バージョン、キハ47は両開き扉がついて運転台が片方だけの近郊型タイプ、それぞれのタイプに寒冷地仕様、耐雪仕様などの亜種が存在する。
エンジンは(まあ、弱いんだけど)それなりに強いタイプ。新潟鐵工所製だったかしら。これは888両作られて1両事故で廃車になって、887両が活躍中。廃止になる寸前のローカル線では必ずこの車両が走っている。
最近は、このキハ40がエンジンパワーの強い奴に改造されてJR九州ではキハ140, 北海道ではキハ400になっている。

では、どういう気動車が漢らしいのか?
まあ、私の考えを簡単に言うと、

  • キハ58との互換性があること。
  • 英国カミンズ社のディーゼルエンジンまたは、それに準じるハイパワーエンジンを搭載していないこと。
かしら。なんだか今まで「君のいう“漢らしい"は全然意味不明だよ」とか友達に言われていたが(←当たり前かも)これで明快になったよね。
…はい、語りが長くなったけどそのキハ140+キハ28の気動車に乗ったわけです。だいたい漢らしいけれどキハ140のハイパワーエンジンが気に入らないな…。まあ、改造のついでに冷房もついているし、認めるとするか(キハ28はついてない)。ちなみにこの冷房、水が座席にぽたぽた垂れてくるふざけた冷房なのだが。

志布志から乗ったのは私一人。無人駅からワンマンで発車するので運転士に「青春18きっぷ」の記入をしてもらうことになった。だがこの運転士、「青春18きっぷ」のことが全然分かっていないらしく、記入と関係ないところに自分の印鑑を押し、「じゃあこれが使用開始日ね」とかのたまう。「使用開始日」って何よ?
…ということで、私は青春18きっぷの原理を運転士に説明して印鑑をもらった。規約には「使用開始日について乗務員から記載を受けて下さい」としか書いてないので、使用開始日をボールペンで書き込んで運転士が自分の印鑑を押してもとがめられはしないはずだ(たぶんこれから各駅で突っ込まれると思うけど)。

運転士が私しかいないのに、ご丁寧に車内放送。「この列車は宮崎行きです」この列車、宮崎の向こうの佐土原行きなのになあ。運転士の担当区間が宮崎までだからか? と思ったが、なんと放送テープまでが「宮崎行き」と言っている。テープ1本しか用意してないんだな、たぶん。で、運転手も合わせてるんだな。

日南線が走っていく道のりは、海沿いの路線と昨日そっくりの台地・山間コース。線路が近いだけあって、志布志からしばらくは昨日の志布志線そのままであった。ただ、大隅半島の海岸線沿いに走るわけではないので畢竟、山間コースが多くなる。路線の前半はほとんど、山間の狭い切り通しを40〜50km/hぐらいで抜けていった。
各駅で少しずつ人が乗ってくる。そして、路線も客も全く変わり始めたのが「油津」あたりから。フェニックスの並木がそびえる海沿いと平野部(台地じゃなくて、平野)を主に走るようになり、高校の生徒が多く乗ってきた。ここらの生徒といえば全員、飫肥[おび]にある日南高校の生徒達である。ここの制服はブレザー風のプリーツなしのスカートと裾なしで外に出すタイプの丸襟ブラウス。このブラウスが結構南国っぽくてポイント高し。野郎の制服? もう記憶からなくなったぜ。

宮崎着が7:50。このあたりで太陽は、昨日のような輝きを見せ始める。そして、この列車の終点の佐土原に着く頃には昨日以上に激しくなり、肌に刺さるようになってきた。←本当に痛覚を感じる。暑いと感じる以前に「痛い」と感じる。

日向灘沿いを爆走

佐土原で40分時間があったので役場のある高台まで登って、景色を楽しんだ後駅に戻ってきた。駅発は9:00の延岡行き。ホームに出るともう、肌が「痛い」と悲鳴を上げる。
延岡まではほとんど海沿い(防砂林があるので海はそれほど見えないが…)を走っていく。ここら辺では、各駅停車でも(電車なら)110km/h制限である。普通の幹線の多くが100km/h制限であるから、かなり速く感じた。ま、特急は130km/hで駅も通過するけどね(九州の特急通過は風が起こって怖い !)。
延岡までは夢うつつでうとうとしていた。延岡の駅を出ると、…あぁもう出たくないな。ということで出歩くのは中止。延岡は工業都市で、駅前も立派である。ちなみに自動券売機は2台さ!

日向から、神の山“高千穂"へ

駅の横についている平屋のプレハブ小屋のような建物が高千穂鉄道の入り口である。
高千穂線と南阿蘇鉄道は、もともと国鉄が熊本と延岡を接続する路線として計画したもの。熊本と大分を結ぶ豊肥本線の立野から北線、延岡から南線の建設がはじまった。北線は南阿蘇の白水高原を抜けていくだけだから楽だが、南線(高千穂線)の工事は非常に大変で金のかかるものとなった。これは五ヶ瀬川の作る渓谷を、ほとんど橋とトンネルだけでクリアしようとしたからだ。そして、高千穂線を今の終点高千穂より先に延伸しているとき、失敗は起こった。トンネルを作っているときに地下水脈に接触してしまったのである。 その湧き出し量はすさまじく、当時地元住民の生活用水が減って困るほどだった。結局解決できずに工事は挫折。国鉄が民営化されてしまい、高千穂より先に建設した部分はパーになった。おまけに、用地売却のため国鉄精算事業団がせっかく作った橋や高架線を全部壊してしまったせいで廃線跡すらろくにない。そして北線は「南阿蘇鉄道」南線は「高千穂鉄道」としてそれぞれ第3セクターに引き継がれた。

こうやって、北と南から作って挫折するパターンは結構ある。数日後に乗る予定の越美北線と長良川鉄道(越美南線)もその典型例だ。

高千穂鉄道は、10:44発の「たかちほ1号」。これは展望指定席車が連結され、フロアアテンダント(とは言わないか?)のお茶・コーヒー・おしぼりのサービスが受けられるオプション(300円)がついているというもの。
でも、自由席のレールバスの方が前に連結されてるし、敢えて300円払うこともないと思い、私は前に乗った。他に観光客は数人で、残りは全部地元の老女。
…で、指定席の乗客は0。とても暇そうにしているフロアアテンダントの姉さんがまったりとしている。今私が指定席に行けば、ご奉仕させまくりだぜ(勘違い)とか思うが、今はそれより渓谷と橋が見たいと思ったので結局自由席のまま高千穂まで行った。

延岡駅を出てからしばらくはのどかな田園の中を、草むした線路が抜けていく。川水流[かわずる]あたりまでで地元の婆さん連中はだいたい降りていった。何とこの鉄道、「スタンプカードで○○が当たる(?)」みたいなサービスをやっていて、客が運賃箱に料金を入れて降りるたびに運転士がスタンプカードに印を押している。まるでTSUTAYAの店員みたい。
終点高千穂まで乗るのは結局私を含めて7人ぐらいであった。さっきも書いたが、高千穂鉄道はひたすら橋梁とトンネルで構成された線。なんと40km程度の線区の後半に、106もの橋と22のトンネルがある。はっきりいって最後の方は「トンネルを抜けたら橋があって、橋を通ったらトンネルがある(写真)」ってな感じになる。駅はおもちゃみたいな待合室のついたコンクリートの固まりがぽつぽつ幾つかだ。そして、併走する国道218号(これは、鉄道が達成できなかった延岡・熊本間をしっかり結んでいる)の鉄橋はもっと激しい。普通道路に鉄橋はそれほど作らないものだがここは作らないと話にならないのだ。大きな鉄橋は高さ130m以上、長さ400m程度にもなる。高さ130mというと、瀬戸大橋⇔海面の距離よりも高い。やばいね。足がすくむどころじゃないですよ。こういう橋ってのは、ひとつ作るのに5年ぐらいは優にかかるし、工費もトンネルの5〜10倍、舗装道路の数百倍以上。鉄道にしても道路にしてもそんなものがぽんぽん作ってある高千穂はすごいところである。
終点の手前にある「高千穂橋梁」は高千穂鉄道の一番の自慢。高さ104m(だったか?)の橋で、柵やアーチはない(風に吹かれたらおしまいだ!←高千穂鉄道の鉄橋はほとんどプレートガーダー橋)。運転士は「雄大な景色をお楽しみください」というアナウンスに合わせ10km/h以下に減速する。足がすくむ。眼下に見える山間の台地と五ヶ瀬川の谷、ここが神話のふるさとといわれる「高千穂」なのだ。

国作り神話の里

神話のはなしはとりあえず後回し、まずは目当ての「高千穂渓谷」でボートを漕ぐべく急いでバス乗り場へ行く。この時点で降りた客のうち渓谷に行くのは私だけであった。
バスターミナルへ行きながら思ったが、この町はそれなりに栄えている。店もたくさんあるし、人が生きている感じがする。みんな高千穂鉄道をつかわないだけなのね(泣)
ま、ここは国道218号の通り道だから車やバスの利便性の方が遙かに高いのは明らかだ。
バスターミナルから、一日数本しか出ていない高千穂渓谷経由のバスに乗った。乗客は地元の婆さん連中のみ。激しい九州弁であるが、分からなくはない(わかるといったら大嘘だけどねぇ)。前の席の婆さんが「高千穂渓谷に行くのか?」という趣旨らしきことを私に話しかける。あぁ、やっぱり分かんないや…。仕方ないので「ああ、そうなんですか」とかいって流した。あはは。
この町は山の中にできた町なので、どこに行くにもすさまじい山道を越えないとならない。バリアフリーなんて永遠に無理な町だ。高千穂渓谷へと、パスは「幅+1m」ぐらいの綴れ折る坂道を下っていった。何しろこの県道、横から見ると視界の中に上から下へ←/→/←/→と4本が一度に目にはいるくらい激しいヘアピンカーブなのだ(写真)。こういう町のバス運転手ってホントに器用だよな。どうしてあんな道で30km/hも出しながらトラックなどとすれ違えるのかといつも思う。
渓谷に着くと客がいっぱい。みんな自家用車で来ている。ま、予想はできていたけど。
あたりは高い木々に囲まれてミンミンゼミとアブラゼミの声、そして清流の流れる清涼な音が周囲を満たしている。ひなたはこんなに痛いほど暑いのに、水に近づくと確実に温度が下がるのは気持ちよい。
この渓谷の魅力は、「柱状節理が剥き出しになったV字谷」である。分からない人のために説明すると、柱状節理というのはマグマが急速に固まったせいで柱状の割れ目ができた岩になることだ。もちろんここでいうマグマはずっとずっと昔に阿蘇山が噴火したマグマだ。雄大な柱状節理ののぞき、滝が流れ落ちる谷の間をボートで回るのはあまりに爽快なのである。
…ということで、ボートに乗るのが私の一番の目的。
案内板がまた紛らわしくできていて、直進のはずが45度ぐらいの角度になっているものだから、やっぱり道を間違えたよ(苦笑) いったん間違えて渓谷沿いの1,2kmの遊歩道を歩き通してしまったので(もちろん周りの雄大な景観に感動はしたが…)、山道の県道をひいひい言いながら戻ってきた。看板を確かめると、「淡水水族館」という表記を発見。どうして間違えるんだか…
私はボートに乗った経験がないので少し怖かったが、まあ、どうにか漕げた。っていうか、よくあんなものが私を乗せて浮きますなあ。フェリーが浮くのは全然不思議じゃないけど、ボートが浮くのはなんともいえず不思議なものだよな。

で、景観を楽しめるのはいいんだけど。他のボートや滝を避けることばっかりに集中してしまう。写真をみれば分かるけど、渓谷のあの滝に巻き込まれたら電子機器も荷物もお陀仏だからねぇ。
…といって避けようとすると、滝が発する水の流れのせいで対岸へと流される。対岸には同じようにして流されたボートが4,5艘いて、あっという間に交錯する。そもそもオールが動かせないほど船が密着するのでみんなでごそごそと互いの船を押し合うこと数分。どうにか脱出できた。日陰になると日差しが切れるのでぐっと温度が下がるが、滝が近いとそこからさらに何度も下がる。ゆっくり漕いで涼しさに浸っていたいが、今度は ボートの延滞料金 がどうしても気になって、制限時間の30分以内にどうにか戻ろうと方向転換。観光産業は世知辛いものですからにゃ。

その後バスの出発時刻16:30まで暇なので、時間をつぶすことにした。ここ高千穂には、「天岩戸」「高天原[たかまがはら]」「国見ヶ丘」など、国造り神話(詳しくは古事記を読もう)に出てくるような地名の場所が多くある。
「どうせこじつけだろう」と一蹴してしまえばそれまでだが、確かに強いオーラを感じさせる場所は何カ所かある。天岩戸神社の近くの天安河原[あまのやすがわら]や(写真:霊場のようだ)、高千穂神社などは特に雰囲気が強い。

折しも雨が近くなってきたようなので、急いで高千穂神社へと向かう。山道ばかりで荷物も20kgぐらいあるので、ひいひい言って歩く。
2時過ぎ、神社に入ると、ヒグラシ以外の蝉の声が聞こえなくなる。ここら辺の蝉はクマゼミ(シャーシャーと鳴く)・アブラゼミ・ミンミンゼミが中心なのだが、静謐な境内では昼間からヒグラシの「カナカナカナ…」という声しか聞こえない。巨大な神木の森の中に本殿はあった。この神社では、シーズンでなくても毎日(毎日だよ)神楽を夜やっている。シーズン中は住民の家をまわりながら演じていくらしい。観光目的ではなくて本当の神事なのだろう。

予想通り雨が降ってきた。どんどん強く降っていく。本殿の軒下で雨宿り。この本殿、入り口に輪になった注連縄[しめなわ]がある。結界なのだろうか。
賽銭箱の横には、人型の紙が何枚か置いてあって、

「名前を書いた後、息を吹きかけて穢[けが]れを移しお帰りください」 と書いてある。祓ってくれるらしいがなんだか本格的で怖いのでできなかった。

雨がやむまでは本殿の下で過ごす。社務所を見ると、中では巫女さんが正座して封筒に手紙を入れている。じつに良いね。
……いつの間にか雨が止みましたな。ではバスセンターにGO!

高千穂から阿蘇へ

高千穂から高森へのルートが湧水で中止になった話は前にしたよね。そこのルートをたどっていくバスが1日に3本。実際これは延岡と熊本を結ぶ(昔鉄道で企画された)ルートのバスの一部なのだ。高千穂をほぼ時間通りに出ると、あとはひたすら国道をうねうねうねうねうねと登ったり降りたり。運転手は制限速度50km/hぴったりでどんどん運転するので結構怖かった(こういうところのバスダイヤは制限速度ぴったりで運転してだいたい定時到着する)。先ほどの雨のせいか、雲と霧が山中を覆ってきた。山全体の温度も5度ぐらい下がっただろうか、神秘的な雰囲気が立ちこめる。バスはそんな中幾つかの通過町の役場だけかいつまんで止まるようにして、高森の役場前まで来た。ここで私は下車。

高森からは南阿蘇鉄道に乗るのだが、これのある市街部と町役場は600mぐらい離れているので、そこまで歩いた。南の町は、春に行った北の町と比べて、街自体が小さくても生活に必要なものがきっちりそろっているところが多い感じがする。

南阿蘇鉄道の高森駅に行くとなんだかごたごたしていた。職員が電話にかじりついてなにやら言っており、駅舎の中が暑苦しい。
話を聞いていると、さっきの雨で落雷があって、停電してしまったということ。つまり信号も冷房も止まっちゃったのである。信号の電気に予備電源はあるにしても、制御系が壊れているときは全部デフォルトの「赤」になってしまい、列車は走れない(そうならなかったらすごいことになるけど)。
ということで(笑)、駅を定時に発車したレールバスはいきなりATSで緊急停止(^^;。
運転士はやむを得ず、司令所の指示に従ってATSをOFF! 司令所に電話で許可を取りながら全部の信号を無視して運転することになった。途中駅で交換するだけのためにいくつもの無線が交錯して大変そうだった。
また、ワンマン用の案内テープが伸びていて最高であった。デフォルトだとテープは松田聖子みたいな声でしゃべっているのだが、再生速度が常に微妙に変化するためアクセントがおかしくて、たまに再生が異常〜に遅くなってハスキーになる。だから、松田聖子美川憲一を途中で入れ替えつつ全体にケント・デリカットを混ぜたような放送で、これがもう大爆笑。
みぎがわのどあ〜が開きます〜」ってな感じでね。聞いてるこっちとしては「え? 喉輪が?」としか聞こえないし、ずっと駅につく度に死ぬほど笑ってしまった。

列車は今までのバスと打って変わって阿蘇南山麓に広がる高原の田圃の中をゴトゴトと走ってゆく。これはまたこれで良い。

これから目指しているのは、「阿蘇下田城ふれあい温泉」駅の温泉。駅に温泉があるといえば、上諏訪駅や高千穂鉄道の日之影温泉駅、そしてこの阿蘇下田城ふれあい温泉駅が有名である。そこまで行く途中の「南阿蘇水の生まれる里白水高原」駅も鉄道ファンにとってはチェックポイントである(写真)。この駅、特に何もないけれど全国で一番駅名が長ったらしい駅なのである。その昔は「岩原スキー場前(いわっぱらすきーじょうまえ)」とか、鹿島臨海鉄道の(あー打つの面倒だから略)とかいろいろあったんだけど、今ではそれを凌駕してこの駅が長さ日本一(写真)。
…といっているうちに問題の温泉駅に到着した。列車から降りると、阿蘇山を背にした一面の水田に虹が二本かかっていた(写真:写ってるかな?)。さあ、風呂!と振り返るとホームから駅舎にはいる扉に鍵がかかっている。おかしいな。何で駅舎に鍵がかかっているんだ? 駅舎の周りをぐるっと回って便所のところから駅の外に出てみる(田舎の無人駅だから隙はいっぱいだ)。みると、一枚の立て看板が(写真)。

「毎月末の日は、駅はお休みです。」

すると、駅前のタクシー営業所から運転手が出てくる。
「今日はお休みだから。だから最寄りの温泉はここから15分くらいだよ。タクシーで。
な、なんか運転手がうずうずしてるのでとりあえず退散し、駅舎に戻る。風呂がないんじゃここで待つしかない。
今はちょうど日暮れ時で、阿蘇の山の端[やまのは]に日が沈んでいく。遮るものなく広がる空は、一瞬ごとに色合いを変えながら月明かりの空へと変わっていく。Twilight(たそがれ)は「(日と月と)ふたつの光」ってのが語源だから、まさに今はたそがれ時である。

しばらくぼーっとしていると、線路にかすかな音が聞こえ始める。5分ぐらいしただろうか、レールパスが到着した。客は2人。もう信号は回復したらしい。
すぐに列車は立野駅に到着し、私は豊肥本線の各駅停車(キハ28+58)に乗り換えた。この駅は、乗換駅・特急停車駅なのに無人駅なのである。

なぜ特急も止まるかは、上の地図を見れば分かる。ここはスイッチバックの駅なのだ。豊肥本線は、阿蘇山の外輪山の中を走る。だから、立野からしばらくと、阿蘇をすぎてからしばらくは相当な勾配路線になっているわけ。で、スイッチバックを使いながらゆっくり登るわけだ。

こういうときになると、キハ58+28の非力さを感じる。勾配を登り始めると速度が30km/h以上出ないのだ。特急型気動車だと十数分で登る区間を二十数分かけて登る。ちなみに、同区間を走る「SL あそBOY」はさらに長い時間をかけてこの山に登っていく。そりゃまあねえ、大正時代のSL(8600。そもそも国鉄がCxxとかDxxとかいう表記を使い始める以前の建造だ)ですからね。

その後はずーっと闇の中。列車に乗っていたのは数人の学生程度である。私の目の前で、ひたすら友人の男子生徒のすね毛を抜こうとしながら「すね毛のロマン」について語る女子高生が。まあ、人それぞれですな。

豊後竹田で大分行きのキハ35に乗り換えた。キハ35は結構新しい気動車で、レールバスよりは大きいが中身はほとんどレールバス。私が乗ったのはたまたまクロスシート車であったが、全体としては、ほとんどロングシート車である。

よって私は嫌いだ。

山を下った後、軽快に走りつづけた気動車は大分駅へと滑り込んだ。ここは岩男潤子のふるさと〜なのは、まあいいとして。 もう深夜12時近いが、弁当を買ってここから私はさらに中山香行きの日豊本線に乗り継ぐ。

弁当を食べながら、目の前に座ったサラリーマンと雑談した。昔、中央大学に通っていて、 練馬にもよく体育をしに来たんだそうな。旅程を聞かれたので、今日の行程を話すと
サラリーマン「ううん、ロスが多いね」
私「そ、そうですか?」
そうか。明日以降の、 ロスの固まりのような計画を前にしていると今日の計画は至極効率的だと、私は自負していたのだが(笑)。
まあ、彼としては「特急に乗れよ!」とか思ったんだろうな。ロマンを解さない哀れな男よ! 私は九州に行くと聞くと、「1.寝台特急 2.各駅停車 3.船 4.新幹線 5.飛行機」の順に発想するような人間なので、彼とは本質的に違うんでしょうな。

深夜の温泉と港へ

別府に着いたのが23:12。これから船で四国の佐多岬半島に渡るのが、今日の計画のラストである。まあ今日は盛りだくさんだこと。船の出航時間は2:00。よってそれまで時間をつぶさなければならない。

別府といえば別府温泉。駅前の「高等湯」という公衆浴場に行く。番台を過ぎて扉を開ければすぐに脱衣所&浴場というシンプルな場所である。

さっきのサラリーマンに「高等湯のお湯は熱いって噂だから気を付けてな」と言われたのだが、いざ足を入れてみると、

熱っつーーーーーーーーーーーーいっ!!!!

ってくらい熱い。たぶん52,3度を超えてると思う。普段いえでも50度ぐらいの風呂に普通に入ってて、熱湯の入ったビーカーを10秒くらい持ってても大丈夫な私が言うんだから間違いないって。

まあ、せっかく来たんだし、入らないのは勿体ないから根性で浸かる。手足をちょっと動かすだけで日焼けにしみて激痛が走るので、微動もせずに
1,2,3,4,5,6,…,29,30!
あーもうだめだっっ!

ではジュースを買って港へGO!
港はここから3,4km歩いた別府国際観光港。そこから、夜行フェリーで四国に渡る。さっきのサラリーマン曰く、
「いやー、観光港まで歩くのはしんどいよ。タクシー使えばいい」
学生がタクシーなんか使えるかこのチキン野郎。 港の夜景を眺めながら歩いて40分、気分良く夜風に吹かれて宇和島運輸の待合所に到着した。

中型のフェリーだが、乗る客は私を含めて2人。それ以外は6,7台のトラックであった。体育館2つ分ぐらいあるのではないかと思われるほどのだだっ広い待合室でただひとり、1:45の乗船を待つ。

1:45に車と一緒のところから(笑)乗船開始。船室に入ったとたんに倒れ込んで眠る。

もうあとのことは覚えておりませぬ。