3日目

→NEXT

時刻表

青森
8:15発 弘南バス
三内丸山遺跡
8:40着
徒歩
新青森
11:01発 奥羽本線701系4連
弘前
11:40頃着
12:15発 弘南鉄道弘南線 東急7000系2連
黒石
12:50頃着
13:10発 弘南鉄道弘南線 東急7000系2連
弘前
13:45頃着
見学
中央弘前
16:00発 弘南鉄道大鰐線 東急7000系2連
大鰐
16:30頃着
大鰐温泉
17:02発 奥羽本線701系2連
弘前
17:13頃着
17:25発 五能線 キハ40形2連
五所川原
18:15着


遺跡入口。雪、何m積もってるのかな。


三内丸山といえば、この不可解な建物。


そして、この十字型土偶である。

 

ちょっと余談

これじゃ、トイレに入る人が「トイレおとこ・トイレおんな」だな(^^; 拡大すると分かります。

三内丸山へ

昨日は深夜に到着した後、車掌に記念写真を撮ってもらったり、誰もいないわびしい駅構内で雰囲気を味わって宿に直行してしまったため、まわりの状況が全然わからなかったので今日は雪の状態などを確認しつつ歩くことにする。

朝6:30頃に青森港周辺の散歩をした。青森はさぞ雪の中で寒かろうと思っていたがそうでもなく、市内は雪に困ることもなかったし、気温も朝から1℃と暖かい。

ただ、市内に雪がないのはラッセル除雪しているからなので、一旦港にいってみると背の高さより遙かに高く積もった雪に阻まれて、先に進むことは不可能であった。そこでうろうろしていると港に出て太極拳をやっているおばさんのコリー犬がなついてきて怖かった。別に危害を加えてくるわけではないのだが、どうも犬が近づいてくると体が動かなくなってしまう~(^^;。

以前、青函連絡船として運航されていた「八甲田丸」が埠頭に展示されているので、外から見てみることにした。跨線橋から青函連絡船に接続する通路は、今ではすっぱりと(文字通り、ただ切っただけなんだよ)切断されてなくなっていた(写真参照)。『「津軽海峡冬景色」の碑』があった。ちなみに、竜飛岬にも同じような碑があるのだが、こちらは音声再生機能付きで、「√ごらんあれが竜飛岬北のはずれと…」の二番だけが再生されるらしい。だまって一番から再生すればいいものを(笑)

さて、朝食を済ませてから今回のメインの一つ、「三内丸山遺跡」にいってみる。駅からバスですぐなのだが、本数が少ない(他と比較すると相当多いんだけど1〜2時間に一本)ので注意する必要がある。

遺跡に来ていたのは10名弱。学期中の朝に青森の遺跡に来ている人が少なくても、当然かもしれない。遺跡はほとんど雪に埋もれていたが、建造物を見に来たので特に問題はなし。しかし、照り返しがあまりに激しいのには閉口した。例の有名な建物(写真参照)と竪穴住居、十字形の特徴的な土偶が展示されている資料館などをみて歩いたが、それほど時間はかからなかった。10時頃見終わったのだが、次のバスは11時40分までない。

そこで、青森ではなく最寄りの新青森駅まで歩くことにした。新青森は奥羽本線の無人駅で、青森郊外にある。直線距離で2km弱だが、除雪した舗装道路(歩道は除雪されていない)を歩いていけばよいので特に問題はない。戊辰戦争の戦死者をまつった三内霊園を突っ切ってあるいていくうちに、すぐに駅についた。ちなみに、墓は墓石が見える見えないか程度に埋まってしまっている。

その後駅前のコンビニで食料を調達した。新青森のサークルKはホワイトデー商戦を展開していたのだが、何故か置いてあるプレゼントのメインが『ショーツ』。それも、なんかすごそうなレースのヤツであった。おいおい。最近のホワイトデーではパンツ送るですか? 流行ってるですか? それとも青森県の独自の文化なのか。どうなんだろう。青森県のお嬢さんにはぱんつを送ると喜ばれるのかしら(爆)。ちなみに、ここら辺の高校生は大体黄土色のブーツ(実用的なヤツね)と黒タイツが標準なようだ。良いね。ははは。

ま、そんなことはどーでもいいわけで~(^◇^;。その後は新青森から701系4連の各駅停車に乗って弘前へ。一面の雪原に映える岩木山を写真に撮った(写真参照)。隣にはシブヤ系ファッション(笑)のねーちゃんが二人座っていたが、会話している内容が全然聞き取れない。前にいた女子高生の会話も聞き取れなかった。唯一分かるのは、津軽弁でも関係なく発音される、英語と漢語のみ。40分ぐらいの会話で、聞き取れたのは「幽体離脱」「思念体」「成仏」「キャミソールがやすいべ」「キャミソールが色褪せる」だけだった。…思念体?


車窓の岩木山。


弘南鉄道弘南線。元東急。ヘッドマークの「柏木温泉」がナニカを連想させたり…
雨月山? そんなものは知りませんっ(笑)


で、その車内。拡大してみるとよく見えます。渋谷東急と109の広告。
青森までまわされて来たんだから取れよ...


ねぷた記念館の巨大ねぷた。


頼むから、マネキンにねぷたを牽かせるのはやめて下さい(^^;。


弘前城の「お堀のはず」のところ。冬期は凍って使いものにならない。


弘前城天守。かなりパースに無理をしているので大きく撮れているが、本物は驚くほど小さい。

弘南鉄道に乗ろうよ

弘前に着いたら、まずは今日のメインイベント、弘南鉄道に乗る。弘南鉄道は弘前の平野部を走り、学生などの交通の便を担う私鉄であり、昔から変な列車がいろいろあることで有名である。現在二つの路線、「弘南線」と「大鰐線」があり、

弘南線は、弘前〜黒石間を、
大鰐線は、市街中心部に近い中央弘前〜大鰐間を、

電車が(気動車ではない。直流1500Vで電化されている)それぞれ30分前後で結んでいる。以前は黒石線という線がもう一つあり、川部と黒石の間を元国鉄のキハ20系列の気動車が走っていて鉄道ファンの心をかき立てたものだが、今はもうない。

地図〜弘前周辺

弘南線を今、走っているのはもと東急の7000系。昭和40年前後に製造され、東横線などでさんざん走ったヤツである。吊革にはまだ、「東急百貨店」「109」などの広告が貼ってある箱がついている(東急沿線の人、分かるよねぇ)。改装しようとか金のかかることは考えないらしい。 私も、つい東横線に乗っているつもりでドアの横の部分に寄りかかって発車を待っていると、目の前のドアがガーガーめまぐるしく開閉を繰り返し始めた。しばらく「??」と思っていたら、ドアの横に開閉ボタンがある。こんなところだけローカル線で、外見は二両編成の東横線、おまけに吊革は109。何と愛せることだろう!!

今日は黒石商業高校の卒業式であった。そのため、車内は卒業アルバムと花束を抱えた女子高生でいっぱいだった。あ、もちろん男子高校生もいたと思うよ。…たぶん。車窓から見えるのは一面の雪野原とリンゴ畑、そして岩木山。岩木山は青空とまぶしい平野に映えて美しい(写真参照)。そうそう、太宰治は「『岩木山が美しく見えるところでは、美女が多い』と一般的にいわれるが、あれは嘘だ」と私見を述べている。Huck氏はひどいことに、太宰に賛同してしまったが(=_=;)実際はどうだっただろうねぇ。明日は岩木山を反対側から見るから、少しは議論も展開するかもねえ。なーんて、だから女子高生の品定めをしに東京から来たんじゃないっちゃ。

黒石から弘前市街に戻った。大鰐線はあとで乗る。弘前には「100円バス」なるものがあって、市内を循環しているので市街中心部へ向かうためにこれに乗った(弘前駅は市街中心部から離れたところに立地している。鉄道建設のとき地元の街道筋が寂れるのを嫌がって地元住民が反対運動を展開し、鉄道が市街と離れたところを通らざるを得なくなったという事例は結構多い)。

100円バスは安いだけではなかった。 それなりに、100円たるゆえんがある。まず、ドアがちゃんと閉まらない(爆)。停留所ごとに運転手が必死に開け閉めしてどうにか閉めている。おまけに、椅子が自動リクライニングしてしまう!! つまり、ちょっとでも背もたれに体重をかけると、後ろにぐーーっとリクライニングしてしまうわけ←よーするに故障..。すごい路線バスだ。まあ、リクライニングできるあたり、観光バスのこわれたヤツを回してるんだろうね(苦笑)。

市街中心部に着いてまずは「ねぷた記念館」へ。弘前のねぷた(ね「ぶ」たは青森ね。知ってるだろうけど)は扇形の大きな絵を骨組みに張った山車で町を練り歩くというもので、眠たいときに灯籠流しをやったことから(ねぷたい?ねぶたい?)祭になったと、係は説明した。何とも平和な逸話であることよ。ちなみに私が聞いたところでは、いわゆる「蝦夷」と呼ばれた人々を駆逐し、征服し、支配を拡げていくその戦争から、勇壮な祭が生まれたという由来があるようなのだが。ううむ。みんなはどっちが説得的だと思う? いや、これ以上は何も言うまい。

ねぷたの表は三国志や水滸伝由来の武将画、裏は美人画と決まっていて、間近で見ると本当に迫力がある。職員の人の指導のもと、笛に合わせて大きな太鼓を叩かせていただいた。この太鼓は耳を劈くような大きな音が出る。その秘密は太鼓の大きさや形はもちろんだが、バチの形にもあるようだ。バチは一般的な木の棒と違って、少ししなっている。そのため勢いを付けて、衝突時により大きな面積を使って振動板をたたけるから、大きな音がでるように思う。

出口付近にはねぷたの再現として、人形が法被を着て、ねぷたの山車を引いている実物大模型があったのだが、これはかなり笑えた。予算を節約するためか、老若男女すべての人形がマネキンなのである。全員が、愁いを込めた瞳で2,3メートル先の空間を見つめ、片足に体重をかけて静止している(写真)。そんな祭あるかい ! 縄文遺跡で竪穴住居の住人が全員カーネル・サンダースおじさんだった、っていうのと次元はあんまりかわってないよね。
…なーんてこき下ろしてごめんなさい。町おこしの邪魔をしてしまいました。私も楽しませてもらったんです。

他にも、弘前の宣伝かアニメ本編かに使われた「サザエさんin弘前」のセル画のコピーが展示されていたりした。ほとんど止めか引きだったが…

そうこうするうちに、時間がなくなってきた。私たちが次に乗るのは「弘南鉄道大鰐線」。発車まであと40分足らずだが、駅は市街の真ん中(でも雰囲気は場末)にある「中央弘前駅」であり、ねぷた記念館から1km以上離れている。Huck氏のナビのもと、桜並木の中弘前城をぬけて中央弘前へ急ぐ。雪道がこれほど疲れるものとは…結局あと2分のところで間に合った。


大鰐線中央弘前駅。弘前市の中心街(^^;から出る。


大鰐線。東横線っぽいけど2両だ!


例の“装甲”除雪車。大鰐駅にて。


で、これがそのプレート。


大鰐駅構内の旧型国電。骨董品だ。

大鰐線も弘南線と大して変わるわけではない。また東急車輌の列車(2両)で大鰐へ向け、リンゴの木の中を走っていくのみである。30分ほどで終点大鰐に到着。ここは「大鰐温泉」として知られ、接続するJR駅には特急もよく停車するのである。

大鰐駅では、いろいろと面白い車両を見つけた。一番感動したのは、弘南鉄道の除雪車である。ラッセル方式が導入される以前、それも昭和12年に建造された鋼鉄製の車両で、うしろに機関車を接続して使う(写真)。見かけは、そう、ラピュタの序盤で登場する「装甲列車」を思い浮かべてくれれば大体当たっている。車体には「昭和12年 鉄道省 苗穂工場」というプレートがあった。戦時中に国鉄の除雪で活躍した車両が、今はこんなところで余生を送っているのだ。
それ以外にも1960年代以前に首都圏で走っていた国電のお古や、小田急や京阪の遥か昔の車両などが車庫にいて、好奇心を刺激した。

大鰐温泉の駅前は、本当に小さな町であった。一周するのに歩いて5分とかからない。それなのに大体すべての日常生活ができるようなつくりになっていた。Huck氏は、温泉とスキーに飢えているようで、すぐにでも大鰐温泉と近くのスキー場へ旅立ちたがっていた(彼は途中から別行動で、意地でも温泉に入るつもりだそうだ。明日以降に期待)。

大鰐(大鰐温泉)から弘前は奥羽本線で数分。白鳥で昨日あっという間だったことを思い出す。どだい路盤と走行速度が違うのだ。

宿泊は五所川原。弘前から五能線に乗り、リンゴの木の中、平野をひたすら直進する。ここら辺の鉄道はそんなのばっかりだ。五所川原まで1時間かかった。五能線では未だに「キハ40」を使っている。素晴らしい ! キハ40(写真?)系列は、キハ58・28とともに最も使われた汎用気動車なのであるが、燃費やワンマン時の効率の悪さ・加速度不足などから、本州のローカル線からは徐々に姿を消しつつある。代わりに登場したのが(八高線や水郡線、陸羽東線などなどの)高性能なキハ110系列なのであるが、私にいわせれば、この車両には風情がない。加速時のエンジンのうなりと、うなる割には加速しない発車、そして頑張って加速したあとに「ユルメ(マスコンを加速側から加速OFFにする)」に切り替えて、線路を走る走行音だけがふっと聞こえてくるあたりが、気動車に乗るロマンなのだと私は思う。高性能にしようとサービスに努めるJR東日本には悪いが、私は旧型のキハ40(2連)に乗れてこの上なく幸せであった。明日もキハ40の五能線に乗って能代へ向かう。楽しみである。

五所川原のtsutayaには、首都圏のベッドタウンと完全に同レベルのビデオが入荷し、黒石の書店では「センチメントの季節」の最新刊を並べて売っていた。首都圏から遠く離れても、このような文化の壁は薄くなったようだ。