亀ヶ岡縄文遺跡と太宰の地
土偶といってまず最初に思い浮かべるとしたら、やはり目が横線で、ずんぐりした「遮光器型土偶」であろう。あれが出土した、縄文後期の遺跡が「亀ヶ岡遺跡」である。私はここに来るのが夢であった。
ここの資料館は大体いつでも開館しているのだが、地図を見れば分かるように、交通の便が凄まじく悪い。まず動脈である奥羽本線からははるかに離れ、ローカル線の五能線からも見てのとおり。
さらにローカル私鉄の津軽鉄道からも12kmも離れている。
資料館へ行くためには、五所川原を朝8時過ぎに起って十三湖の先までいく路線バスに乗り、左の地図の場所までいかなければならない。 そのために、わざわざ(弘前ではなくて)五所川原に宿泊したのである。そのために、朝8時前からバスを待っていた。五所川原からは津軽半島各地や青森・弘前に向けて相当の数のバス路線が存在するのだが、驚いたことに客がほとんど乗っていない。青森行きなどは数人乗っているものの、誰も乗客をのせないまま出ていくバスも多かった。東京発青森行の高速バスなどで、どうにか損失補填に努めているのだろうが…
私たちの乗ったバスは十三経由小泊行きで、4時間以上もかけて小泊(地図参照)まで細い県道を走っていく路線であった。乗ったときには3人、40分後に私たちが降りたときは4人。途中から道は1車線になったが、周囲に家と店が絶えない。これでも津軽半島の動脈なのである。
バス停で降りるとき、運転手に「縄文館へはずっと案内標が立っているから分かりますよ」といわれた。確かに立っている。「縄文館まで1200m」という看板を目印に、脇道へそれる。しばらくは人家が続いているが、道は途中から杉の森へ入り、その後は一面の雪原の中を通っていった。
暫く歩くと、スポーツセンター(ただの体育館)と合同の建物に入った亀ヶ岡縄文館 に辿り着いた。
ちょうど車で縄文館に出勤してきた職員の方(この人は、実は亀ヶ岡式土器の複製や、それ以外にも独自の焼き物を近くの工房で焼いている工芸家の方であった)に会い、中へと案内された。展示室はたったの一つ。「練馬区立石神井郷土資料室」よりも狭かったが←無関係/
、興味深い展示物がいろいろ置いてあった。亀ヶ岡遺跡は縄文時代晩期の遺跡で、縄文遺跡の中では最も成熟し、洗練された文化を見ることができる。縄文土器にはただ模様を入れるだけではなく、縄で模様を入れたあとにあえて刷り消したり、焼き上がったあとに磨いて光沢を出したりするなどの工夫がされていた。
特に遮光器型土偶と注口土器が有名なのは皆さんもおそらく知っていることだろう。
明治時代に発掘され、現在は重要文化財に指定されている例の遮光器型土偶(地元木造町では「シャコちゃん」と呼んでいる(爆))は文化庁に接収されて現在は上野の国立博物館に展示されている。ははは…(苦笑)
実物は現地にはないのよ。ま、事前に調べて知ってはいたが。ちなみに、遺跡はちょっとした公園になっていてシャコちゃんの記念碑が建っている。三内丸山のように、見せることがメインの公園ではない。
さて、タクシーで亀ヶ岡から金木まで行くことにした。タクシーにきてもらうまでの間、職員の方と雑談したりしてすごした。亀ヶ岡縄文館に来た私たちは今年で5人目の客で、2月には誰も来なかったそうだ。そりゃそうかも。真冬の奥津軽の遺跡に、冬場に来る人なんてそうそういないものね。受付係は来ない客を毎日待っているわけだ。それでも一年に5000人は来るという話だが。
☆青森県は、三内丸山遺跡を中心とする縄文キャンペーンのために、畳1枚よりも大きなポスターを作って各関係に配布した(写真)。遺跡の上に、目をとじたキャンペーンガールの顔写真が載っているものだ。もちろん、目をとじた形のあの土偶(シャコちゃん)を意識しているのである。確かにポスターの彼女は色白の東北美人で、目をとじた姿は土偶に似ていた(笑)。矛盾しているようだが、見れば確かにそうなのだ。⇒つまり、土偶は東北美人なわけですよ
! (逆は成り立たないけど)。思いもよらなかったので、っていうかまあそりゃそうなんだが、とにかくポスターをデザインした人に拍手を送りたい。
ミス土偶(ごめん)
亀ヶ岡からはタクシーで30分。時速90km近くで東へと県道をひた走る。ここら辺では大体、「制限速度の2倍弱」で走るのが標準のようだ。
金木は太宰治の生まれた町。彼はこの街を東京の「小石川(北区)」にたとえている(^^; 小石川に似ているかどうかは知らないが、東北の小都市はみな、必要限度の店と集落がひっそりとまとまっている場合が多い。
さて、彼が生まれた家は現在は「斜陽館」として一般に展示されている。太宰治の父は地主&国会議員で、莫大な金をかけてこの家を金木に建てたという(写真)。確かに、二十以上の部屋をもつ大きな屋敷で、和風の建物の中に洋館の部分がごちゃごちゃに混ざっている。和洋折衷といえば聞こえはいいが、ただ金をかけただけの俗っぽい趣味にも見える。実際太宰治は、父や兄が地主として搾取した金で建てた家に自分が住んでいるということに悩み、複雑な感情を持っていたことが彼の著作(なんだっけ…)から分かる。
☆私が斜陽館に来たのは、10年ほど前にJR東日本の「こども時刻表」で俵万智さんが津軽鉄道と一緒に紹介する記事が載っていて、それを読んでからずっと行きたいと思っていたからなのだ。今回の旅は、幼い頃から行きたいと心に思っていた場所と路線ばかりをめぐる旅になるように計画してある。
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