4日目

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津軽半島南部、縮尺は100万分の1


縄文館へ行く途中の風景


出土した土偶


注口土器

時刻表

五所川原
8:25発 弘南バス
館岡
9:04着
徒歩 1.2km
亀ヶ岡縄文館
9:25頃着
10:10発 タクシー
金木 斜陽館
10:30頃着
11:15頃発 徒歩 15分
芦野公園
12:36発 津軽鉄道ストーブ列車 オハフ33 1他3連
津軽五所川原
13:20頃着
五所川原
14:11発 五能線 キハ40 4連(鰺ヶ沢から2連)
深浦

15:52着

15:54発 キハ40 2連
能代
17:40着


斜陽館

亀ヶ岡縄文遺跡と太宰の地

土偶といってまず最初に思い浮かべるとしたら、やはり目が横線で、ずんぐりした「遮光器型土偶」であろう。あれが出土した、縄文後期の遺跡が「亀ヶ岡遺跡」である。私はここに来るのが夢であった。

ここの資料館は大体いつでも開館しているのだが、地図を見れば分かるように、交通の便が凄まじく悪い。まず動脈である奥羽本線からははるかに離れ、ローカル線の五能線からも見てのとおり。 さらにローカル私鉄の津軽鉄道からも12kmも離れている。

資料館へ行くためには、五所川原を朝8時過ぎに起って十三湖の先までいく路線バスに乗り、左の地図の場所までいかなければならない。 そのために、わざわざ(弘前ではなくて)五所川原に宿泊したのである。そのために、朝8時前からバスを待っていた。五所川原からは津軽半島各地や青森・弘前に向けて相当の数のバス路線が存在するのだが、驚いたことに客がほとんど乗っていない。青森行きなどは数人乗っているものの、誰も乗客をのせないまま出ていくバスも多かった。東京発青森行の高速バスなどで、どうにか損失補填に努めているのだろうが…

私たちの乗ったバスは十三経由小泊行きで、4時間以上もかけて小泊(地図参照)まで細い県道を走っていく路線であった。乗ったときには3人、40分後に私たちが降りたときは4人。途中から道は1車線になったが、周囲に家と店が絶えない。これでも津軽半島の動脈なのである。

バス停で降りるとき、運転手に「縄文館へはずっと案内標が立っているから分かりますよ」といわれた。確かに立っている。「縄文館まで1200m」という看板を目印に、脇道へそれる。しばらくは人家が続いているが、道は途中から杉の森へ入り、その後は一面の雪原の中を通っていった。 暫く歩くと、スポーツセンター(ただの体育館)と合同の建物に入った亀ヶ岡縄文館 に辿り着いた。

ちょうど車で縄文館に出勤してきた職員の方(この人は、実は亀ヶ岡式土器の複製や、それ以外にも独自の焼き物を近くの工房で焼いている工芸家の方であった)に会い、中へと案内された。展示室はたったの一つ。「練馬区立石神井郷土資料室」よりも狭かったが←無関係/ 、興味深い展示物がいろいろ置いてあった。亀ヶ岡遺跡は縄文時代晩期の遺跡で、縄文遺跡の中では最も成熟し、洗練された文化を見ることができる。縄文土器にはただ模様を入れるだけではなく、縄で模様を入れたあとにあえて刷り消したり、焼き上がったあとに磨いて光沢を出したりするなどの工夫がされていた。 特に遮光器型土偶と注口土器が有名なのは皆さんもおそらく知っていることだろう。

明治時代に発掘され、現在は重要文化財に指定されている例の遮光器型土偶(地元木造町では「シャコちゃん」と呼んでいる(爆))は文化庁に接収されて現在は上野の国立博物館に展示されている。ははは…(苦笑) 実物は現地にはないのよ。ま、事前に調べて知ってはいたが。ちなみに、遺跡はちょっとした公園になっていてシャコちゃんの記念碑が建っている。三内丸山のように、見せることがメインの公園ではない。

さて、タクシーで亀ヶ岡から金木まで行くことにした。タクシーにきてもらうまでの間、職員の方と雑談したりしてすごした。亀ヶ岡縄文館に来た私たちは今年で5人目の客で、2月には誰も来なかったそうだ。そりゃそうかも。真冬の奥津軽の遺跡に、冬場に来る人なんてそうそういないものね。受付係は来ない客を毎日待っているわけだ。それでも一年に5000人は来るという話だが。

☆青森県は、三内丸山遺跡を中心とする縄文キャンペーンのために、畳1枚よりも大きなポスターを作って各関係に配布した(写真)。遺跡の上に、目をとじたキャンペーンガールの顔写真が載っているものだ。もちろん、目をとじた形のあの土偶(シャコちゃん)を意識しているのである。確かにポスターの彼女は色白の東北美人で、目をとじた姿は土偶に似ていた(笑)。矛盾しているようだが、見れば確かにそうなのだ。⇒つまり、土偶は東北美人なわけですよ ! (逆は成り立たないけど)。思いもよらなかったので、っていうかまあそりゃそうなんだが、とにかくポスターをデザインした人に拍手を送りたい。


ミス土偶(ごめん)

亀ヶ岡からはタクシーで30分。時速90km近くで東へと県道をひた走る。ここら辺では大体、「制限速度の2倍弱」で走るのが標準のようだ。

金木は太宰治の生まれた町。彼はこの街を東京の「小石川(北区)」にたとえている(^^; 小石川に似ているかどうかは知らないが、東北の小都市はみな、必要限度の店と集落がひっそりとまとまっている場合が多い。
さて、彼が生まれた家は現在は「斜陽館」として一般に展示されている。太宰治の父は地主&国会議員で、莫大な金をかけてこの家を金木に建てたという(写真)。確かに、二十以上の部屋をもつ大きな屋敷で、和風の建物の中に洋館の部分がごちゃごちゃに混ざっている。和洋折衷といえば聞こえはいいが、ただ金をかけただけの俗っぽい趣味にも見える。実際太宰治は、父や兄が地主として搾取した金で建てた家に自分が住んでいるということに悩み、複雑な感情を持っていたことが彼の著作(なんだっけ…)から分かる。

☆私が斜陽館に来たのは、10年ほど前にJR東日本の「こども時刻表」で俵万智さんが津軽鉄道と一緒に紹介する記事が載っていて、それを読んでからずっと行きたいと思っていたからなのだ。今回の旅は、幼い頃から行きたいと心に思っていた場所と路線ばかりをめぐる旅になるように計画してある。


芦野公園駅


上の場所は5月はこんな感じ。


ストーブ列車入線。芦野公園駅にて。


ストーブ列車車内。風情のかたまりである。


この木目が素晴らしい。


この駆動系を見よ!!涙が出る。


この手ブレーキを見よ! よだれは…出ないか。

嗚呼ストーブ列車よ!!

津軽鉄道には、昔から「ストーブ列車」なるものが走っている。 これは車内暖房を、特別に設置した石炭ストーブで行うタイプの客車列車だ。今となってはここにしか残っていない。

ストーブ列車は戦前・戦時中には結構存在した。しかし、少なくとも高度経済成長期以降の機関車や一部の車両にはSG(Steam Generator)という装置が搭載され、各車両に暖房用の蒸気が送り込まれるような仕組みになったために、ストーブ列車はなくなってしまったのだ。(*もちろん蒸気機関車は客車に蒸気を送れるから暖房では苦労しない。問題はディーゼル機関車などである。余談だが、白鳥などの485系クハ481ボンネットがわざわざ大きな形をしているのは、中にSGが入っているからだ)

斜陽館を見終わったあと時間があったのでHuck氏と、芦野公園駅まで1km程度散歩した。公園までの道は弘前と違って綺麗に除雪されていたので、苦労はしない。芦野公園に入ってからは、今度は数メートルの積雪のせいで進めなくなったので、「スタンド・バイ・ミー(線路を歩いて行くこと。もちろん線路は除雪されてるから歩けるのだ)」をやって芦野公園駅まで辿り着いた。

芦野公園は桜で有名だが、駅も桜並木の中にある。ホーム一面だけの小さな無人駅だ。昔、この町(金木町)の町長が東京へ行った帰りに上野で「芦野公園まで一枚」といったら「そんな駅はありません」といわれて激怒し、30分ねばって芦野公園までの切符を無理矢理発行させたという逸話がある。彼は結構チャレンジャーだ。普通に五所川原まで買えばいいのにねえ。

さて、そうこうするうちにやってきましたストーブ列車。引いているのは津軽鉄道の機関車DD53型?である。もちろんJRの機関車と違ってSGなど積んでいないし、駆動系はまるで蒸機で、蒸気機関車のような車輪を動軸で結んで動かすという骨董品だ。そして客車が傑作 !! 元国鉄のオハフ33やオハ46なのだが、たぶんそんな説明では分からないだろう。なんていえばいいのかな、川端康成の「雪国」に出てくるような、中が木造で、ホームから乗るときにドアをノブで「がちゃっ」と開けるようないわゆる、戦前から戦後まもなくにかけての旧型客車だ。車掌が扉を「がちゃっ」と開けて(これが何ともたまらない)、中にはいると床も窓枠も、全てが木。台車も板バネを使うタイプで、もちろんボルスタレスなんかではない。
お目当ての石炭ストーブは赤々と、相当強い火力で燃えていた。乗客の皆さんは餅を焼いたり鯣(するめ)を焼いたりして一杯やっている。何とも用意のいいことだ。我々もご相伴にあずかり、五所川原まで鯣をかみながら旧型客車の乗り心地に身を任せていた。鉄道好きとしては『もう死んでもいい』と本気で思えるほど、幸せな時間であった。.....(写真)


美味そうである。目の前で焼かれるとたまらない。


津軽五所川原駅にて。


津軽五所川原駅。右の引き戸が駅の入口だ(笑)


鰺ヶ沢駅。ここから海沿いになる。


キハ40。鰺ヶ沢駅にて切り離し作業中。


千畳敷駅にて。駅を降りるとそこは奇岩に波打ち寄せる日本海。


1時間以上こんな風景が続くのである。

荒れる日本海と奇岩のなす造形〜五能線〜

地図を見てほしい。五所川原観光を終えた後、私は能代という町に出ることにした。使う鉄道は、五能線。五所川原と能代だから五能線である。実際は奥羽本線と接続する都合で、弘前発・東能代行きとなっているのだが…



さて、地図でも分かる如く、五能線は日本海に沿って走る。今の時期(3月)はまだ寒く、日本海も荒れがちだ。そして見渡す限りの海と、その荒波に砕かれてできた奇岩とが織りなす風景が、ずっと展開される。それは表現するだに難しく、写真を見ていただくしかない。
*ちなみに、太宰治は小説「津軽」の中で、人に媚びずただ『恐ろしい』という表現しかできない自然であるという趣旨を述べている。

車両は私が最も愛する気動車、キハ40の2連。深浦で乗換だった。ワンマンなので、後ろの車両に乗りたがる乗客はあまりいないらしく、二両目には誰も乗っていなかった。私は二両目に乗って、窓を開けて外を眺めていた。1時間以上も絶景が続き、小雨の降る冬の日本海を体感できた。汐の匂いも、夏の太平洋とは何かが違う。

さて、17:40分に能代へ到着。ここから、Huck氏とは別行動だ。彼はこのあと東能代→大曲→横手→(北上線経由)→花巻 と出て、花巻に22時頃到着するらしい。大変である。

小雨の中到着した能代の町は、静かにかすんでいた。さて、ホテルに到着してから7時までこの記録をつけて、夕御飯を食べに行こうとしたのだが…!
この街、とても気味が悪い。駅から数百mのところにあるホテルから駅前の食堂へ歩いていったのだが、駅前にアーケードを形成する商店街は真っ暗。ほとんど電気が灯っていない。まだ夜7時だぞ!? 店が閉まっているだけならまだしも、家さえ数軒に一軒ほどしか電気がついておらず、真っ暗なのだ。道をただ自動車が通過して行くだけ。
駅前食堂に着くと、客は私だけであった。何ということだ? 100万分の1の地図にも太字で載るくらいの「能代市」なのに。 カツ丼を注文すると、 店のおばさんがなにやらいうことには、「8時に閉店だから、みそ汁は用意できない」とのことらしい(秋田弁は理解不能)。仕方なくカツ丼だけを食べて店を出た。平凡な味だった。帰りは商店街を通るのはやめた。 「ただ暗いだけの裏道」は別に怖くない。「人がいるはずの商店街なのに、なぜか人がいない」というのがたまらなく怖かったのだ。結局駅まで行って帰ってくるまでに会った人は一人だけであった。
食堂のおじさんに聞いたところ、「この街は夜は暇ですから」といっていた。暇というのは人が活動しないことらしい。読んでいる皆さんも想像してほしい。NHKの大河ドラマが始まる前に、商店街からもゲームセンターからも、老人から若者まで、人っ子一人いなくなってしまう街を。夜7時に電気が消えてしまう街を。 能代はそんなところなのである。


能代の中心市街。この写真は朝撮影。